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ドキュメンタリー作品をテレビ、映画の枠を超えて広く観客に届ける為に、今、何が可能なのか?
[第4回 座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル]では初めての試みとしてシンポジウムを開催しました。

開催日時:2013年2月10日(日)11時〜12時30分  編集:加瀬澤充  撮影可香谷慧

登壇者プロフィール(※開催当時)

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大澤一生(映画プロデューサー)
1975年東京生まれ。日本映画学校でドキュメンタリー制作を学び、卒業後は主に独立系ドキュメンタリー映画にプロデューサーとして携わる。プロデュース作品に『アヒルの子』(2010監督:小野さやか)『隣る人』(2012監督:刀川和也)『ドキュメンタリー映画100万回生きたねこ』(2012 監督:小谷忠典)など。
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木下繁貴(配給会社東風・代表)
1975年生まれ。2009年より合同会社東風の代表に就任。ドキュメンタリー映画を中心に多数の作品を配給する。2010年、東海テレビ製作の『平成ジレンマ』(出演:戸塚宏)を皮切りに『青空どろぼう』『死刑弁護人』『長良川ド根性』を立て続けに東海テレビと共に配給し、地方局制作番組の劇場公開に活路を開く。
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松江哲明(映画監督)
1977年東京都出身。セルフ・ドキュメンタリーの『あんにょんキムチ』(2000)で監督デビュー以降、『セキ☆ララ』(2006)、『ライブテープ』(2010)、『トーキョードリフター』(2011)、3Dドキュメンタリー『フラッシュバックメモリーズ3D』(2012)、劇映画『SAWADA』(2013)などを制作。
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中村佑子(テレビマンユニオン・ディレクター)
1977年東京生まれ。2004年、テレビマンユニオンに参加。『ご縁を生む人・森本千絵』(WOWOW)や、『石井岳龍の挑戦–3Dのその先へ』(WOWOW)等を企画、プロデュース。初監督作品『はじまりの記憶 杉本博司』(2012)は、2010年に放送された45分のテレビ版が、国際エミー賞アート部門にファイナルノミネートされ、再編集後に劇場公開。3ヶ月のロングランを記録した。
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大槻貴宏(ポレポレ東中野・支配人/トリウッド代表)
1967年長野県生まれ。大学卒業後渡米し、コロンビア・カレッジ・シカゴ映画/ビデオ学部映画学科でプロデューサーコースを専攻。1999年、下北沢に短編専門映画館「トリウッド」を開館。2003年5月からは「ポレポレ東中野」の支配人も勤める。一方で若手作品のプロデュースにも多数携わる。
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[コーディネーター] 橋本佳子(映像プロデューサー/座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル実行委員)
1981年のドキュメンタリージャパン設立以来、プロデューサーとして数多くのテレビ番組を手掛ける。近年はドキュメンタリー映画のプロデュースや、テレビ番組の映画化も積極的に行っている。代表作に『ニッポンの嘘』(2012 監督:長谷川三郎)、『フタバから遠く離れて』(2012 監督:舩橋淳)、『ひろしま 石内都・遺されたものたち』(2013監督:リンダ・ホーグランド)など。

テレビ番組が映画作品へ、その方法と葛藤

IMG_3075.JPG〈※ 以下、議論からの抜粋です。〉
橋本:今回このシンポジウムをやるきっかけになったのが、冒頭で申し上げましたように、テレビと映画のボーダーが少し崩れてきたかな、それは何故なのか、一体何を生む可能性があるのか、またどんなハードルがあるのか、その辺りをちょっとお伺いしてみたいなと思いまして。
まずは中村さん。
テレビにずっと関わってきて初めて映画というものに挑戦して、作り手、ディレクター、監督として、一体どんな壁があったのか、何が良かったかなど、その辺りを少しお話聞かせていただければと思うんですが。

IMG_3097.JPG[写真] 中村佑子ディレクター中村:具体的にはまず45分のテレビ版をwowowで2010年に放送して、そこで放送した後に、膨大に素材もありましたし、これは違うメディアで、自然に映画にしたいと思ったんです。
違う編集で違う表現でもう一度この人を捉え直したいなという欲望がモクモクと沸き上がって、それが最初ですよね。
そこから映画館に交渉して、最初はテレビ版を見せて、「こういうものがあるんだけれども、これを映画にするから、例えば音楽もこういう形にする、こういうイメージにして、杉本博司という人物をどう描くかに関してもこういう風に変化させるから」形がない段階で交渉に入ったんですよね。
「分かりました、かけます」とイメージフォーラムさんが言ってくださってから実は編集を始めて、その後エミー賞にノミネートされたりというのがあって。
表現の話から先にしてしまいますと、テレビはラジオから始まったメディアだからということもあると思うんですけど、言葉のメディアだと思っていて、論理で構成して限られた時間の中で構成して作る、そういうメディアだと思うんですが、私もさまざまな映画を見てきて、映画というのは写真から生まれたということもあるけど、映像で語らせるものだろうという思いがあって、じゃあ自分が45分のテレビ版を大体倍ぐらい、90分ぐらいにするにあたって、ナレーションを、言葉を抜いて映像に語らせてみようというふうに思ったんです。
でも、やっぱりテレビで映画の可能性を考えずに撮っている素材というのは、やっぱりテレビなんですよね。
何て言うのかな、現在に時間性が立脚しているというか。
そこに言葉を入れて論理で構成する映像なんですよね。だから、これはもうやりきるしかないんじゃないか。
むしろ、テレビ的表現は映像と言葉とをかなり精緻に縫い上げる部分がありますので、対象者の杉本さんもコンセプチュアルアーティストなので、彼に拮抗するという意味でも、テレビ的表現を使ってやってみるしかないだろうと思ってやってみたということがあった。
どこまでナレーションでできたか分からないですけど、最終的には映画館で観客の方と一緒に見たときに、「自分は映画は言葉ではなく映像で語らせるものだと思っていたけども、テレビの表現というのも可能性があるんじゃないかな」というふうに、ちょっと抽象的な話になっちゃいましたけど思った。
まず作り手としては一番、テレビから映画へというところで悩ましかったことでもあるんですけど、テレビ的表現に改めて可能性を見いだしたという気持ちがあったというのが大きかったですね。

テレビ的表現/映画的表現

橋本:他にも聞きたいことはあるんですが、テレビ的表現、映画的表現というワードが出てきたので、それについて話してみましょうか。
映画というのはナレーションがなくて、テレビはナレーションがあるというのは、何かあらかじめそういうものだと思い込んでる人たちがいっぱいいるというのは、私にとってはそうなのかな?という疑問はあるんですが、その辺りはどうですか? 
IMG_3158.JPG{写真] 大澤一生プロデューサー中村さんはあらかじめそういうものだと思ってたんですよね。
かなり映画も多く見てらしたと思うんで。

大澤:映画でもナレーションがたくさん入る作品はありますし、アメリカのドキュメンタリーなんかは映画でもかなり音声で情報を埋めるような作品もたくさんあるので、あんまり個人的にはナレーションが入る入らないというのは…。
ただ映像で語っていくのか、テキスト、声で語っていくのかというのは、ただそれはディレクションであったりその作品の意図する方向によってでしかなくて、発表する媒体によって違うのかというのは僕にはちょっとよく分からないです。
逆にテレビで発表するときに言葉で埋めなきゃいけないのか?ということを逆にお聞きしたい。

IMG_3143.JPG[写真]コーディネーター 橋本佳子橋本:私から、答えますね。
よく「素(す)を作るな」って言われました。
音に素があった瞬間に数字下がるからっていうのは、私のようなテレビ屋は20代のときから叩き込まれているんですよ。
素を作るな。だから、ナレーションがないと不安になる。
だけど実はテレビのドキュメンタリーもノーナレーションのものは結構あるんですね。私もわりと作ってます。
だから、一概にテレビは必ずナレーションとは言えない。
ただ、基本的にナレーションがあるものの方が数は多い、8割とか。9割とか。多分、松江さんは番組をいっぱい見ていらっしゃると思うんですけど、そんな感じですよね?

IMG_3147.JPG[写真左] 松江哲明監督松江:僕は見にくるお客さんだと思うんですよね。今日ここに集まってる方たちだったり、ドキュメンタリー映画を映画館に見に行くという人は、どちらかと言えばナレーションがない、映像で語られているものの方が好きだっていうふうに僕は思う。
それを作り手がどちらを選ぶかというのは演出家の好みというか、そこでいいと思うんですよ。
ただ僕は映画館で見せるものとテレビで、僕もたまにテレビをやったりするのですごい違いというのは、実は映像で語るというよりも、映画館で見るときというのは、「音」だと思うんですよ。
テレビは結構言葉でそれこそ間をつくらなかったり、全部詰め込んで説明しますけど、映画館って結構言葉じゃなくてもそのときのノイズだったり、風の音だったり、音が結構演出できるなというのが。
映画館に来る人は結構そういうのを気にしてるのかなっていうふうに僕は思います。
それは、テレビじゃできないんですよね。ノイズだけっていうのは無音と捉えちゃうっていうか。
映画館ってほんとの無音とノイズっていうのは全然違う。そこの部分が結構大きいと思いますね。聞こえてくる音の強弱が全然違う。

橋本:テレビで見てると確かに音がないんだけど、映画館で聞いてるとかすかな音だったり、何かそういう音が聞こえてきて、そのことがこういう劇場という空間と相まって、全然違うものを生んでいく。

松江:そうですね。だから、想田さんの観察映画もあれはナレーションがないのではなくてノイズで見せてる、そういうことだと僕は思いますね。

橋本:木下さん、いろいろ配給宣伝でテレビ版を先駆者的に上映しているわけですが、その時に今のテレビ、映画みたいなことを、どう、お感じになったか?

IMG_3169.JPG[写真] 木下繁貴(配給会社東風代表)木下:質問から少しずれるかもしれないのですが、最近うちの方で先ほど話が出た観察映画といいながら映画をつくられている想田監督の配給宣伝をしているものなので少し想田監督の話を軽くさせていただきますと、想田監督自身は元々はNHKのドキュメンタリーとかBS向けのドキュメンタリーなどを制作されてきた方で基本的にはナレーションを入れてテロップをバリバリ入れるのがものすごく上手な方なんですよ。
映画をつくろうと思ったときに、自分の手足をわざと縛りながら「映像でどう見せていくのか」「映像だけでどう見せていくのか。テロップもナレーションもなしで。音楽もなしで。」という形でやられている方です。
観客にとっては、想像する面白さというのが、テロップもナレーションもないことで誘導が緩いわけですよね。誘導される割合が。
そういうところで観客としては面白みを感じてるんじゃないのかな、と思っています。
東海テレビの作品などについては、元々作られてきてたドキュメンタリー作品自体が基本的にはナレーションを入れてるものが多かったので、劇場で公開するときもナレーションを入れたままで公開してます。
ナレーションを入れる入れないということの選択は、私たちではなく制作者側での選択です。
私たち自身としては、別にナレーションが入っていようといまいと観客にとってどのように見えるのか、どのように楽しんでもらえるのか、考えてもらえるのかということの方が大切だと考えてますので、ナレーションのありなしのこだわりは全くないですね。

橋本:分かりました。大槻さんはいかがですか? 大槻さんも東海テレビの「死刑弁護人」やその他の、ベースがテレビだったものを劇場でかけているということについては、どのように?

IMG_3167.JPG大槻貴宏(ポレポレ東中野支配人/トリウッド代表)大槻:我々は乱暴な言い方をしたらどっちでもいいんですよね、本当に。どっちでも構わない。
それが自分にとって、自分というのは観客の代表と僕たちは思っている。僕たちがそれをどう見たかということ。
よくあるのが、テレビの方が自分たちで作ったものを持ってきて、「これは映画ですかね?」とか「映画になってますかね?」ということを聞いてくることがあって、そういうときにいろいろ話をするんですけど、「何なの?」というような話もするし、そういうことではなくていいと思っているんですよね。
自分が作ったものがあるんだ、ということで持ってきてもらって、それが気に入る人もいるし気に入らない人もいるし。それが映画であるとかテレビ番組であるという判断は僕はしない。どう思ったか、ということで考えてますけど。
だから、制作者次第だと思うし、テレビの方もすごくそこに気をつかうということは全くないと思ってますけど。

橋本:今まで、テレビと映画のドキュメンタリーの作り手同士って間近に顔を合わせることなく何十年きてしまったので、この辺りが少しずつ混じり合って越境というか、ぶつかり合っていくことで、新しいことが生まれる可能性があるかな、ということを最近考えています。
だから、過渡期なのかな。いま、テレビで言うとドキュメンタリーってほんとに低迷してますし、そこも含めて時代と共に少し変わっていく可能性があるかな、と思ってます。私自身は、その可能性に挑戦したく思ってます。
さて、時間もないので、またちょっと中村さんにお聞きして申し訳ないんですけど、「ビジネス面から見てどうよ?」という話も少ししたいので、ちょっとお聞きしたいんですけど、wowowで放送して、映画にしましたよね? 
続編をwowowでつくるという選択肢はなかったのかな? 普通ありますよね、テレビで来年もとか、この人を5年も撮っちゃったというのを出していくシリーズとか? 
その選択は中村さんにないのか、それとも、周囲の環境としてないのか、差し支えなければ聞いてもいいですか?

IMG_3108.JPG中村:さっきの補足にもなりますけど、私もテレビ的表現、映画的表現って言っちゃいましたが、やっぱりテレビの文化にどっぷりつかってる部分もあるんですよね、自分が。そのテレビの文化の中で言うと、例えばwowowさんは完全に加入者に見てもらうので、ある程度はどういう人に見てもらっているかというのはリフレクトもくるし、見えやすいは見えやすい。最近は同時にツイッターで感想を見れるようになりましたけど、普段テレビでオンエアーされても、やっぱり視聴者はブラックボックスで、どういった人にどういう顔をして、どんな状況で見てもらっているのか、というのがブラックボックスのまま「視聴者は…」っていうふうに想定してつくる場面の違和感というか、そういう文化だし、しょうがないんですけど。そうじゃなくて、自分もそうですけど、映画館でお金払って時間作って見て、それを人と共有して見る、そしてこの大画面で。先ほど映画館の音響の可能性みたいなこともおっしゃっていましたけど、全く私の中でテレビでオンエアーすることと映画にして見せることの意味が違ったんですよね。だから、映画にしたいと思ったということですよね。

橋本:届け方とそこからの…

中村:リフレクトですね。自分が再編集して見せたときに実際にこの観客の席で隣り合わせで見たときに、やっぱりすごく興奮したというか、見てるときの息づかいとか見終わった後の表情もそうですけど、これが作った後の喜びなんだなと、初めて知った感動が確かにありました。