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東日本大震災からおよそ3年。
未曾有の大災害はテレビや映画など数えきれない無数のドキュメンタリー作品を産み出しました。
極限状況にいち早く飛び込みカメラを回したもの、長期間撮影を続けたもの、あえて被災地に行かなかったもの…
作り手の数だけ多様な震災への関わり方、そして葛藤があったはずです。
東日本大震災はドキュメンタリーの作り手たちにどんな問題を投げかけたのでしょうか―。
3年後の今だからこそ、様々な立場のゲストを迎えて話し合います。

開催日時:2014年2月8日(土)13時30分〜15時30分  編集:加瀬澤充  撮影:清水哲也

登壇者プロフィール(※開催当時)

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池谷薫(映画監督)
同志社大学卒業後、数多くのテレビドキュメンタリーを手がけ、1997年に蓮ユニバース設立。記録映画『延安の娘』(2002)は世界30数ヶ国で上映され、2作目の『蟻の兵隊』(2006)は記録的なロングランとなる。陸前高田市在住の佐藤直志77歳の震災後を1年半にわたり撮影した『先祖になる』を発表。
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松江哲明(映画監督)
セルフ・ドキュメンタリーの『あんにょんキムチ』(2000)で監督デビュー以降、3Dドキュメンタリー『フラッシュバックメモリーズ3D』(2012)など、常に新しい表現に挑戦している。『トーキョードリフター』(2011)では、震災後ネオンが消えた東京で、ミュージシャン前野健太が歌い、さすらう様子をドキュメントした。
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安岡卓治(映画プロデューサー)
1954年生まれ。日本映画大学教授。2011年、東日本大震災発生から2週間後に松林要樹、綿井健陽、森達也とともに被災地に入り、『311』を制作した。共著「311を撮る」を刊行。福島の800日を記録した「遺言~原発さえなければ~」の編集を担当した。
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大野太輔(NHK仙台放送局•ディレクター)
宮城県仙台市生まれ。1999年NHK入局、社会問題をテーマに「クローズアップ現代」や「追跡AtoZ」の制作を担当。2010年から仙台局。震災直後から1年間宮城県名取市の中学校を取材し、『本当は、悲しいけれど 閖上中学校で出会った人々の1カ月の記録~』(2011)などを制作。
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国分拓(NHKディレクター)
1965年宮城県生まれ。1988年NHK入局。「新・シルクロード」などの番組を手がけ、2009年NHKスペシャル『ヤノマミ』を制作。2012年、震災発生直後からほぼ1年かけて原発最前線の町・南相馬で取材を続けたNHKスペシャル『南相馬 原発最前線の街で生きる』を制作した。
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萩野亮(映画批評家)
1982年生れ。立教大学非常勤講師。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」編集委員。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー:現代日本を記録する映像たち』、共著に『アジア映画の森 新世紀の映画地図』など。昨年『現代詩手帖』に論考「イメージによる被災に抗して 震災以降のドキュメンタリー映画」を発表している。
[コーディネーター] 山崎裕(座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル実行委員、プログラム・ディレクター)
[司会進行] 加瀬澤充(座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル実行委員)

(以下、議論からの抜粋です。)

作り手達のそれぞれの震災への思い(VTR上映)

ドキュメンタリー映画監督、松林要樹
(※『相馬看花』『祭の馬』監督『311』共同監督)
松林:まず、見てみたいなという気持ちですね。自分が現場に立ってみて感じるということが、まず必要なのかなと思ったんですよね。その時に行ってなかったら、多分一生後悔するだろうと思った。今、思うと、できるだけ当事者に近づきたいという気持ちを持って取材してたんじゃないのかなと思います。
なんで、こんなに色んな人から言われるのに、こんなものを作ってるんだろうと思った時に、もうエゴ以外ないなと。誰からも請われてないし、依頼されたわけでもない。どうしてかと言うと、ほんとにその現場に立ち会ってしまって、じゃあなんとか…しなきゃいけないという気持ちですかね。

テレビディレクター、平田潤子
(※『なにゃどやら〜陸中小山内の盆歌』演出)
平田:震災から3年前の2008年に、岩手県の小さな浜を取材してつくった番組があったんですけど、そこが津波の被害を受けたので、浜がどうなったか、そこの人達がどうしているのかを確かめたくて、一応、カメラを持って行った。その時撮ったものと3年前のものとで番組にしないかという話があって、お盆の間、定点観測をする為にその村に滞在してたんですけど、みんな、心の中はすごい落ち込んでるし、港の中は海がぐちゃぐちゃになってるんですけど、でも、目に見えるビジュアルな被害は少ないんですよ。
毎日テレビで被害の映像ばっかり見て、神経が麻痺していたんだと思うんですけど、その時に自分は、どうしたかというと、隣の村、また、その隣の隣の村に車を走らせて、被害を探して被災地を走り回ったんですよね。少しの被害では満足できないというか…そうじゃないと番組にならないと思いこんでいた。瓦礫があると撮って、より大きな瓦礫を、よりフォトジェニックな瓦礫を探して走り回る。その映像は一切、使えなかったんだけど、あの自分の情けない行動は何だったんだろうという、しこりというか、傷として、ずっと残ってますよね。

■ドキュメンタリー映画監督、伊勢真一
(※『傍 かたわら〜3月11日からの旅〜』監督)
伊勢:ドキドキするって感じってあるじゃないですか。胸騒ぎとかいうこと。そういう感じにすごくなって、だから根拠なく、行かなきゃみたいな気持ちにすごくなって。欲望だね、多分。ただ撮りたい、うん、それが抑えがたく出てくるんだよね。
行ったら人の迷惑になるとか、あるいは自分が弱い性格だからとかさ、色々な人がおろおろするしかないとか、きっとまわせないとか、要するに…大変な時に、何か、人の不幸を撮って嬉しいのかって言われたりね。直接言われなくても、ああ、そういう風に思っているなっていうのってわかるじゃないですか…。
そうすると、たじろいでしまうというか、だから、すごく撮りたいっていう意欲がある…、でもそのたじろいでしまうのも確か。

■映画監督•テレビディレクター、是枝裕和
是枝:震災があって、まず家に帰ってNHKの空撮の中継を見たのが一番大きかったな。で、それがあった後に、自分もやはりテレビに関わっている人間の一人として、これは何かしなければいけないのではないか、何が出来るんだろうかということを、まず考えたんですけど、考えて自分の周りにいた、よく一緒に動いたりしている作り手たち何人かで集まって、報道に参加するという事ではないかもしれないけれど、制作会社にいる連中も何かしらこの震災に対してリアクションを起こすべきなのではないかと話し合いを持った。放送を前提にならないかもしれないけれど、ひとまずカメラを持って被災地に入ろうかっていうような、話の流れの中で、3月の終わりだったんですけど、石巻とか…とか、松島あたりをまわりました。
自分としては、圧倒的な崩壊の風景を自分の目で見て、その匂いを嗅いで、その場所に立ったという経験が自分の中に強く残っているんですけど、撮った映像を具体的に何か、…ドキュメンタリーであるとか、それを元に作るとかっていうことには、ちょっと向かわなかったんですよね。それは何故だろうなっていうのは、自分なりに考えているんですけど、これは決してその直後にそれを映像として流した人に対する批判では全くないので、そこだけは誤解しないでいただきたいんですけど、その風景を前にして物語を探そうとしてる自分がいて、その自分はちょっと見づらかったのね、自分としては。そういう形でここに入っているんだろうかという事をやっぱりちょっと躊躇しちゃったんですよね。
これは物語を拒否している風景ではないかと思っちゃったもんですから、そこで僕が躊躇したという事は、多分僕はジャーナリストでは、なかったんだと思うんです。おそらく。もう少し自分の中に、それを呑み込んで消化したあとで、出そうと思ったのは確かなんですね。それは、絵空事だと言われればそうかもしれない。



現場で感じた葛藤とは?

山崎:作り手の皆さん、それぞれに10人いれば10通りの東日本大震災への向き合い方があったと思います。私自身も是枝監督が喋っているように彼と一緒に4月の頭か、福島の方へ宮城県と行ったんですが、そこで何を撮るかと言った時に、やっぱり基本的に人間を撮れなかった、撮らなかったし、撮れなかった。
受けいれられなかった。風景しか。人間もいるけれど風景としてしかつかまえて撮れなかったですね。で、まあ、そういう意味で皆さんが、現場でなどんなモチベーションで何をしようとしたのか、そして、どんな葛藤を受けたのかっていうようなお話をそれぞれにしていただけたらと思ってます。

DSC_0144.JPG[写真左] 池谷薫(映画監督)池谷:えっと、僕は色んなところで言ってますけれど、実は被災地で映画を撮るつもり全然なかったんですね。
で、ただ僕は福島の白河というところで少年時代過ごしているもんですから、震災はやっぱり他人ごとじゃなくて、友人も多いんで。でね、仙台に親しい友達がいて彼に、俺ボランティアで何か出来ないかと思ったんですね。
ちょうど立教大学で教えてたんだけど授業開始が1カ月伸びて、震災開始の影響でね。
で、じゃあボランティアでもしに行こうかと思って、その仙台の友人に、「俺、何かできないか」って、聞いたら、「お前が来て、瓦礫の片づけやっても意味ないな、どうせ来るなら映画撮りに来いよ」って言われたんで「ああ、そうか。そうだな。」と。
僕が出来ることは映画を撮ることなんだなと思って、まあ、それで震災1月後でしたけれどね、陸前高田に向かったんですね。ただね、今VTRの中にもあったけど、まあ、皆さんちょっとカッコつけてる気がするけどね…やっぱり撮りたかったんですよ。それは。でね、僕は人間を撮るっていうのが信条なもんですからね、多分こういう時だからこそ、「人間力」っていうのかな、そういうのが今、色んなところで試されていると。だから、ひょっとすると、またすごい出会いがあるんじゃないかというような気持ちはありました。
でね、行ったらね、面白いですね。だいたい、映画っていうのは観客を裏切ってなんぼのもんだと思うんですけどね、そういう意味で言うとね、映画をつくる僕自体が色んなところで裏切られてるんですよ。
ていうのは、陸前高田に行って、まあ、さんざん壊滅的な被害だってことを聞いて行ってるわけでしょ。ところが行った「先祖になる」の舞台のところでは、花見をやってたの。それはもちろん、特別な意味があってね、亡くなった方々を供養して、それから元気になってもらおうと、そういうやつで、そこではちゃんと花見が行われていた。
そこで、「他の全国の人に申し訳ないな」て、言ってるわけですよ。
「俺たちのお蔭で自粛になっちゃって」て。だから、そうやってひとつずつ裏切られてるんですよね。
もう一つ、面白かったのはね、陸前高田に行くんだから、これはてっきり漁師の物語になると思ってたんですね。ところが、僕は、木こりの爺さんと出会っちゃうわけですよ。
で、そういう幾つかのことが重なっていく内に、これはやっぱりこの人のある種、生きざまを撮ればいいんだなという風に思って、そこからひたすら1年半通うということになりました。

加瀬澤:松江さんは、いかがでしょうか。

DSC_0152.JPG[写真左] 松江哲明(映画監督)松江:僕はあの地震があった時に日本にいなかったんですね。3月9日から韓国の映画祭に参加していて、帰国したのが3月23日で。多分、外国人の人がみんな帰国して、山手線とかに乗っても人もいない状態だったんですね。
一番、節電のピークというか、で、水道水からセシウムが多く検出されたっていうのを帰国してニュースで見たのをすごく覚えてますね。
なので、僕が帰った時には、東京の風景というか日本の風景が、すごく変わってたって時期で、で、その頃からちょこちょこ、例えば安岡さんとか、森さんが、被災地に行ったということを聞いたりして、僕もドキュメンタリー作ってる中で、行かないんですか?みたいなことをメールでもらったりしたんですよね。
僕はどちらかというとそのメールを貰った時に嫌な気持ちというか、なんかこう、そういうことを強要されるというか、で、なんかちょっと僕は行けないなと思ったんですね。
それは、おいおい話の中に出てくると思うんですけど、僕は「トーキョードリフター」という映画を撮ったのは、5月の27日で、企画を決めたのが4月の11日なんですね。
ちょうどその日は、東京都の都知事選が、石原慎太郎さんにすぐ決まった時だったんですよ。8時の開票すぐに。石原慎太郎さんに決まって、ちょうど高円寺で原発の反対のデモがあった日なんですよ。すごく高円寺の風景を、友達とかいっぱいいたので、僕はデモに参加しないで、1ケ所から見てたんですね。どういう事が起きてるのかという事を。スーッと風景を見てた時に、原発反対という人に対して野次を言う人がいたりとか、町の中で。
「そんなことを言うなら電気使うな。」みたいなことをいう人がいたり、何かその、すごく何て言うのかな、何か、変わって来ているというか、何かすごい。それで家帰ると、ニュースで、すぐ石原慎太郎さんに決まって、その時に僕、今、この東京の風景を撮りたいなっていうか。
前、一緒にやった、前野健太さんという人と、彼とはすごく連絡をその時期取っている時だったので、何かその時ふっと、「あ、東京変わるな」と思ったんですね。
帰国して僕は、これから東京はすごい節電して、町が暗いというか。
僕は、その風景をすごくいいと思ったので、この風景が続くかな、生き方が変わるなと思ったんですけど、あ、これまた元に戻るなっていう風に思って、多分これ町は明るくなるし、また石原慎太郎さんに決まって、また東京戻るなと思って、で、映画も撮りたいと思って。これ一番大きな理由なんですけど、その東京を撮っている人が誰もいなかったんですよね。
アートの人とか、ビデオアートをしてる人とか、そういう人は、あの東京を定点カメラで記録したり、今までの風景と比較する形でYouTubeでアップする人がいたりして、で、こういう映像をみたいというか、すごく僕は沁みたので、それはやっぱり、震災の時にいなかったということと、ずっと東京に住んでいたというのが大きくて、ドキュメンタリーの人が誰も行かなかったっていうのが、僕はちょっと不思議で。
誰も撮らなかったから自分が撮ったというのが、大きな動機ではあります。

加瀬澤:安岡さんはいかがでしょうか。

DSC_0157.JPG[写真左] 安岡卓治(映画プロデューサー)安岡:はい。「311」という映画が前回の高円寺のドキュメンタリーフェスティバルでも上映していただいて、その時は僕だけではなくて、森達也、綿井健陽、松林要樹も揃って、この場所でお話をしたんですけど、まあ、そもそもの発端の事を重複するかもしれないですけど、申し上げますとね、今、考えてみると僕自身何も考えてなかったなというのが多分、正直なところだったですね。で、綿井健陽から電話があって、で、森さんが被災地に行くらしいよと。
安岡さんも来ませんかって言われて、あ、そうか、あの森が動くのかと思ってね。
で、要は、綿井は、僕はミニバンを持っているので、多分それをあてにしてたんでしょうね。
そのことも透けて見えたんで、じゃあまあ、1週間くらいなら、なんとかスケジュールきれるかなと思って、じゃあいいやと思ってね。
そしたら松林が実は僕、チャリンコで行こうと思ってたんですけど言うから、お前馬鹿だねって言いながら、最初、自転車積むって言ってたんですけどね、それはちょっと勘弁してくれって言って、で、行った。
そのまあ、とっかかりというのは、ジャーナリストである綿井健陽はですね、彼らはフットワークいいですね。震災のその日の内に行動計画を立てて、彼が所属するJVJというフリーランサーのグループがいるんですけども、もうそこでその日の内に行動を開始して、震災の翌日には被災地に入ると。それは、まあファーストウェイブっていうんですかね、ジャーナリズムの用語らしいんですけども、一刻も早く現地に行って、その現地の状況を見て、それを一刻も早く伝えるというね。まあ、そういう綿井の…が一つあって、で、綿井としてはセカンドウェイブ、つまり最初の状況がその内、どう変化したかを見るんだ。一番最初には、綿井のモチベーションがあったんですよね。
それに牽引されたんけど、じゃあ僕ら自身が考えてみてることって、それぞれバラバラだったですね。
それぞれバラバラなのに、映画になるなんてこと、映画にするとかしないとか、なるとか、それ以前の問題だというのが最初の認識だったですね。行ってる最中の認識でね。
で、あの、現地に着くまでの間ね、何か非常に皆、ハイになって行くんですね。
取材された方、多分おぼえがあると思うんですけどね。
なんか、あの、これから行くところは多分、とんでもないところになるんだろうなと思いながら、でも移動している最中はキャアキャア騒いで馬鹿話をしてですね、綿井健陽はプロレスラーの名前のしりとりをやってたちとか、あの、ほんとにこいつはバカだなと思いながらも、だんだんみんなの表情が変わって行く。つまり近づいて行く。
で、まあ僕が8割方、運転したんで、道の変化とか見えて来るんですね。
そうすると今、考えてみると、ただの記録者とかね、ジャーナリストとか、ドキュメンタリストとかいうことと関係なく、そのプロセスの中で僕らが震災の中である種、追体験していくという、そういうプロセスになってしまったんですね。
で、着いたはいいけど、まあ、「巨大な破壊」是枝さんも言ってましたけどね、それを撮る。撮るけど何をそこから描くかということは考え切れない。考え切れないけど、そこまで僕らのある性なんでしょうね。
なんか探そうとするんですよね、物語をね、探そうとする。その事に最も積極的だったのが、森達也で、色んな人にマイク向けるキャメラ向ける、彼は一番アグレッシブに被災者の中に入って行って、で、綿井さんは森さんを抑えるような形で、キャメラが2台回ってるなと。
そうすると遠くで松林が三脚ガッツリ据えて実景撮ってたりするんですね。
そうすると、なんか、あ、映像を見ておきたいなと、これも撮るとチェックしたくなる。
チェックするとね、つなぎたくなっちゃう。つないじゃうとね、これどうだろうって見せたくなっちゃうみたいな。
なんかそういう非常にものをつくる動機というのとは、ちょっと違う、それは僕らの、というか僕のある性としてあって、で、何か僕らの、ある種、積極的な意思とは違うところで、できあがったものが動き出してしまった。
で、ちょっと試写してやってみたら、なんか、釜山映画祭に出さないかと言われてね。そうすると何か、釜山のファンドがあるんで、それにも出さないかと言われて、はい、じゃあ、出します、って言ったらお金が出ちゃった。
そしたら山形もきっと色々批判されるだろうけど、どうだろう、なんて言ったら、共にあるセクションがあるから、そこで上映します、みたいなね。
で、ただ実際そこで作品として形になったものって、言うならば、僕ら自身でしかなかったんですよね。僕ら自身でしかなかった。
ただ、僕らも今、考えてみるとある種、そういう震災を追体験した。
で、ある種、最初から意図があって出来上がったものではないんで、多分、作品的に考えたら目を覆いたくなるぐらいボロボロですよ、ほんとに。
で、松江からもすごい叱られましてね、「なんでこんな映画やったんですか」って思いっきり叱られてね。「うん、そういう気持ちわかるんだよな」とか思いながら、でも何ていうか自分のていたらくみたいなものとか自分の性とかね、さっき申し上げたような。
それをもう一回、ひとつ振り返って、これから先、あの時点からあと、どう関わり合いを持って行くかということの、なんかある種の原点として、ガツンと杭を打ちたいというね。
そういう意味合いでやって、まあ、あのう、そのあと、今、作ってるのが3本目で、またあとで話します。こんな感じです。

加瀬澤:じゃあ、大野さんは、いかがでしょうか。

DSC_0168.JPG[写真左] 大野太輔(NHK仙台放送局•ディレクター)大野:僕は、震災の半年前に仙台に転勤で赴任していたんですが、ですので震災をちょうど仙台の局のそばで最初の揺れを体験するんですが、たまたま地元が、是枝さんも言ってたヘリコプターで津波が巻き上がった名取とか仙台のあの辺りでして、ちょうどニュースセンターで中継のコーディネートと言いますか、NCにいたんですが、皆さん津波ってことを正に感じたあの映像を僕自身は、「ああ地元が流れていくなあ」という気分で見ていたという。
まあ、それを地元局で、何となく指をくわえて見ているというか、それはただ、みんなが感じてた、当時あの周りで感じていた驚きとか恐怖というよりは、若干、違和感っていうか。たまたま僕は仕事でスマトラの津波の被災地にも行っていて、当時の番組とかも担当してたんですが、よく言われるように、映画で見るようなとか、テレビで見るような風景が、ああ自分の地元で起きているなということの違和感が、ファーストインプレッションっていうか、最初でありまして。
まあ、父親と母親が幸い無事でしたけども、当時から、その地域にはいたものですから、まあ冗談半分に、当時は、ほんとに冗談半分に言ってたんですけど、上司に、「取材ロケに行くことがあるなら、僕に仙台か、名取の閖上に行かせてくれと。親父、おふくろ、死んでるかもしれないから、他人に撮られるくらいだったら自分が撮りたいから。」っていう風に、まあ冗談で言っていたんですけど。
その日の夜9時に、まあ2日後にNHKスペシャルで番組をやることになったと。
クルーを出さなきゃいけないので、ひとまずお前行って来いと。
年次的なことも含めて、たまたま、使命をされたと。
で、当時、現場も情報がありませんので、まあテンカメの映像で、釜石、宮古、その他の地域が津波に襲われてると。
気仙沼で火災が発生しているとか、浜辺に200人ぐらい遺体が上がってるとか、その程度の断片的な情報しかなかったので、まあ、あの、翌朝一番で現場に出るときに、地の利がいいだろうということで閖上に入ったと。
で、以来、2年半ずっと、何本か、何本かというか、何本も番組をつくらせていただいているということで、あの、最初に入った時は僕自身も、何でこれだけのことが起きているところに、なぜ俺はカメラを携えて行っているんだろうかという、申し訳なさだけで、正直、ほんとに、ジャーナリストといいますか、テレビ屋といいますか、そういう興奮は僕は全然なくて、憂鬱な気分だったなということをすごく覚えています。
ただあの、じゃあ、何故撮り続けたかって言えば、多分、今ずっとお話になっているように、申し訳なさよりもエゴっていうお話がありましたけども、やはり見たいし、撮りたいし、話したいという、話を聞きたいという気持ちが、それよりもいつも少しずつ上回っているというのが僕の中のモチベーションだったんだろうなとは思います。
ただ、実はあの松林さんと先日、山形の国際映画祭でご一緒させていただいたんですけれども、僕自身は、じゃあエゴだけだったかって言うと、そうではなくて、初日からそうだったんですが、初日っていうか、3月12日の朝から、そうだったんですけど、こちらは申し訳ない思いだったんですけれども、現場の人達はすごい熱を持って、僕に向かって喋りかけてくるんですね。
こちらが問わずとも、すごく、何があったのか、どういう状況だったのか、自分の家族の状況はどうで、どういう風な思いなのかということを、すごく語ってくれていて、もしかしたらこの人達は話したいんじゃないかと。
で、まあ皆さんそうですけど、津波とかの映像を撮っていらっしゃるじゃないですか。もしかしたら人間って驚いた状況を伝えたいんじゃないかっていうような思いもあって、思いを感じて、もしかしたら僕らに出来ることがあるんじゃないかという思いを一方で感じながらやってきました。
その上で、その日、出会った人たちのその後が知りたくて、1カ月ぐらいかけてドキュメンタリーを撮ったりとか、そこで、閖上中学校というところに最初800人ぐらい避難してらっしゃったんですが、その方々、その学校では子供が14人亡くなってしまったんですけど、その後の生き残った子供たちがどのように過ごしていくのかってことに興味を感じて取材をして、1年間に何本かドキュメンタリーを撮らせていただいたりとか、その時、何があったのかということを調査報道してみたりとか、その都度、僕の場合は、長期で関っていると関係性の中から情報も集まりますし、集まった情報の中にあらたなモチベーションが沸いたりとか、そんなことがテレビとして耐えうるというか、社会の関心事と重なる部分はできるだけアウトプットしたいということがあって、お付き合いのなかでというか、次から次へと出会いがつながって番組が続いているだけで、特段、継続しようとか地元だから、このまま継続して記録していきたいとかっていう、なんかそういう風なものを背負っているわけではないんですけども、結果起きていることが、まあ、僕自身はこれからの日本を考える、すごいヒントになる部分もたくさんある。ということで、「住民合意」という番組をやったんですけど、合意形成の問題をやってみたいとかっていう風に繋がってきたというのが結果的に一応、絆につながっているという状況です。

加瀬澤:では、国分さんは?

DSC_0174.JPG[写真中央] 国分拓(NHK•ディレクター)国分:僕は全く行く気もなく、行きたいとも思わず、とっかかりは、行けと言われたから行ったという何とも情けない話なんです。何というか、正義を貫いたり、自説を主張したりするのが嫌いというか苦手で、それより表現することの方が好きなんです。とすれば、俺は震災に触れられない、触れたくないって思いがあって。
私はNHKの人間なんですが、3月11日のことはよく覚えていて、揺れてから10分後ぐらいに大部屋という居室に戻ったら、名前がバーッと貼りだされてあって、俺の名前もあるわけですね。どういう名前かっていうと、出身が東北であるか、もしくは東北で働いたことがある職員のリストなわけです。ボードの前には中隊長みたいな上司がいて、1人1人呼んで、「お前、ふるさとの復興に役立ちたいだろ、行きたいだろ、行くよな」って言ってるわけ。そんな感じも嫌だった。ふるさとの復興のために被災地に行きます、というのが嫌だった。復興のために現場に行こうと思っているヤツらが気味悪かった。あ、ごめんなさい。でも、ま、そこは大人だし、受信料からお給料をもらっている手前、「行きたくないけど、お手伝いはします」とは言ったんですけどね。
それで、最初の頃は、連日のように放送していたNスペの、編集手伝いみたいなことをやってました。しかし、その間も、いろんな人から、「とにかく行け」「どこでもいいから」と言われるわけです。企画書も書かなくていいし、放送もいつでもいいからと。そこまで言うんだったら、俺も条件出してみようかなと思って、「チームじゃ嫌だと。一人でやらせてくれるの?」って聞いたんです。チームでやると面倒くさいですよね、NHKって。今から思うと、その上司は偉いと思うのだけれど、それでもいいって言ったんです。で、3月16日に「3日ばかり考えさせてくれ」と話して、19日に、福島なら行くと伝えたんです。
なぜ福島だったのかはうまく言えないのだけれど、“戦後”より“戦中”に行きたかったんだと思います。たぶん。ま、“支えあおう”みたいなものははなからやる気はないんで、どうアプローチするかは悩んだけど。福島原発の1号機に突入してリアルな今をリポートするって言うのも好みじゃないし、支え合おう系も嫌。それで、やっぱり人間も生き物もひっくるめた「生」だよなと思い、屋内退避というか、家の中にじっとしてろって言われた人たちの所に行きたいって思ったんです。ちょっと乱暴で誤解を与えちゃうかもしれないんだけど、僕、東北なので、東北の人がおとなしくて、文句も言わずに悲しみを堪え、復興への希望を振り絞っている的な報道がされると、なぜかとっても腹が立つわけ。報道する側にも、応える被災者にも正直腹が立つわけ。ほんとかよって腹が立つわけ。もちろん、嘘だとか誰が悪いってことではないのだけれど、果たしてそれが実相なのかって、甚だ疑問だったわけ。だから、自分が彼らの本音を受け止める“的”になろうと思った。できれば、当時南相馬に残っていた1万人の的、それは無理だろうけど、せめて数百人の的になろうと思った。被災地外の人間であり、震災を商売にしている自分が的となって、俺に向かって発射される様々な言葉を、被災地外に伝えたいと思った。それで、福島に1年通ったんです。
僕はよく、ナイーブなズリセン野郎、的な批判を受けるんだけれど、それでも結構。震災を物語化するなとも言われたけど、それでも結構。どうせ全部「物語」じゃないですか。みんな自覚がないのかな。NHKでは「物語」という言葉がどちらかというとネガティブに使われるようになってきて、それはそれでNHKの偽善性を表していると思うのだけれど、そんなこともどうでもよくて、ただただ、的になるために福島に通いました。

加瀬澤:萩野さんは作り手というか批評的立場ですが、これまで3年、すごいたくさんのドキュメンタリーがつくられていますが、その辺りはどう思っていらっしゃるでしょうか。

DSC_0193.JPG[写真] 萩野亮(映画批評家)萩野:萩野と申します。私は、今日この中で唯一作り手ではなく、作品を見る側の人間であるわけですけれども、その代表としてここに座るようなことは、もちろんできないわけです。あくまで1人の書き手として、この3年間でどういうことを考えてきたかを、今日はお話できればと思っています。
 皆さん3月11日のことから話されていたので、私もそこから始めたいんですけども、文字通り言葉にできないような大きな衝撃を受けました。自分は書き手として、この震災について何も書けないだろう、書かないだろうと感じました。そうするうちに、いくつか被災地に取材した作品ができてきて、原稿の依頼などをいただくこともあり、結果的には多くの作品にふれることになりました。その過程で、作品を見る、そしてそこに言葉を置くことで、何か自分でも「震災」に向き合えるようになってきたような感じがしているんです。
 安岡さんのお話に、被災地に入るファーストウェイブが報道だとすれば、自分たちはセカンドウェイブだったという話がありましたけど、それ以降もサードウェイブ、フォースウェイブという形で、どんどん新しい波としてカメラが被災地に入って行きました。そこで撮られたものは、それぞれ性質がまったく違っていると思うんですね。例えば最初期に撮られた映像には、瓦礫の山が多く映されていますけれど、その瓦礫は今はもう撤去されて存在しない。初期に映された映像の中でしか、瓦礫の風景は見ることができないわけです。ですから、地震発生の直後に撮られたものと、その1年後に撮られたもの、長期取材を経て撮られたものというのは、単純に比較することができません。そういう意味もあって、ここに並べられた作品について、――私ももちろん全て見ることはできていませんけれど、あえて思い切って言いたいのは、この全ての作品に意味があるし価値があるということです。
 というのは、この震災の被災の全体像を描くようなことは、誰にもできないわけですね。何か全体を表現しようとすると、被災者数であるとか、震度やマグネチュードであるとか、そういう数字に代表させざるを得ない。とりわけ、この映像という領域において、カメラは目の前の限られた現実しか記録することができないわけです。このことはドキュメンタリーにとって、一つの限界であると同時に非常に大きな可能性をだからこそ持っていると思うんです。
 全体のうちのごくごく一部にすぎないものをできるだけたくさん見ること、それが私は大事だと思ってきたんですけれども、まだまだ3年でしかないわけです。これからも、もっとたくさんの作品が被災地、あるいはこの震災をめぐって撮られるべきだと思いますし、それがもっと見られるべきだと思います。作品の完成度はもちろん個々あるわけですけども、今はそれを討議する段階にはなくて、まずはもっと撮られてほしいし、もっと見られてほしいと思っています。